torae1732004-08-31




◆ 『銀耳』再読  伊波虎英 


 五月十六日に東京で行われた短歌人の研究会の様子を、みの虫さ
んがCD−Rに収録して送ってくださった。取り上げられている歌
集は、僕のお気に入りの一冊でもある魚村晋太郎さんの『銀耳』。


 発表者の木曽陽子さんが、魚村作品に魅了されているのが犇々と
伝わってきたし、かつ非常に内容の濃い研究会で、僕も久しぶりに
『銀耳』を再読してみたくなった。


 永田吉文さんが、一首として詰めが甘い、完成度の低い歌もある
ということを、幾首か挙げて具体的に指摘されていた。たとえば、


 老人は自転車で来て鳩たちにまぶしきパンの耳を降らせる
 外を向いて俯いてゐるひとたちが綺麗だ 風の夜のローソン
 先頭車両までを歩めりファシズムが青葉のやうに柔らかき朝


 一首目の「まぶしき」は、永田さんの仰るように詩的におさめて
しまった感があり、僕も成功しているとは思わなかった。


 しかし、二首目の「風」は動かせないのではないか。煌々とした
コンビニ店内と店外の闇との対比というありきたりの情景描写に留
まることなく、「風」(きっと、コンビニの店先にある宣伝用の幟
がバタバタ音をたてているのだ)によって、外からはひっそりと静
まり返っているように見える店内の情景を一首にあざやかに掬い取
っている。ここはやはり、「雨」でも「雪」でもなく、「風」でな
ければならない。夜の闇に明るく浮かぶコンビニという無音の空間
で雑誌を立ち読みしている人を綺麗だと感じてしまう<私>の孤独
感を見事に表出した秀歌だ。


 三首目については、魚村さんがファシストになっているように読
めて、その考え方自体に共感できない、自分なら電車から降りる情
景を歌にすると永田さんは仰っていた。魚村さんも作中主体も、決
してファシズムに賛同しているわけではないだろう。僕はこの歌か
ら、座席に座ったまま目的地へただ運ばれていくのではなく、また
途中下車するのでもなく、先頭車両まで自分自身の足で歩いていく
という<私>の強い意志を感じた。すなわち、時代の流れに迎合し
たり、無関心でいたり、あるいは後部車両へと歩いていくように過
去の古き良き時代を懐かしむわけでもない、確固たる<私>の信念
を。