◆ 良い短歌/良い読者  伊波虎英


 「9月時評/短歌と出会う」で村田馨氏は、作者と読者との間に
ある<良い短歌>についての認識のズレに触れて、<良い短歌>が
<良い読者>とめぐりあう確立を高めるためには、読者の物差しと
作者の物差しをできる限りすり合わせる必要があると述べている。


 読み手側についての「ひとつの物差しにこだわりすぎてはよろし
くないだろう。」という村田氏の見解には同感だ。例えば、文語・
旧仮名づかいで書かれた短歌に無条件で拒否反応を示すような「こ
だわり」は、<良い読者>となるためには捨て去るべきだろう。


 一方、作り手側へは「粗末な物差ししか持っていない読者には測
りやすい物差しを準備するくらいの気持ちがあってもよい。」との
意見。「測りやすい物差し」とは、具体的には一体なにを指すのか。


 「場」に応じて仮名づかいを使い分けるというような臨機応変
であれば、まあ理解できなくはない。しかし、もっと根幹的な部分
で、粗末な物差ししか持っていない読者に阿ってまで自らの表現レ
ベルをすり合わせるということなら到底納得できない。さまざまな
読者の意見に耳を傾けることは大事だが、粗末な物差ししか持って
いない読者を、作り手がそこまで意識する必要があるだろうか。そ
んなことをしても、村田氏が結びで言う「その結果として、読者が
歌人を鍛え、また歌人が読者を育てるといった、お互いが向上する
方向に進んでゆけば、」云々ということにはならないのは明白だ。


 読者の存在を意識することは、自作が独りよがりなものになって
いないかを客観的に判断するうえで、作り手にとっては必要不可欠
なことである。しかし、<良い短歌>を生み出すために意識するべ
き読者とは、粗末な物差ししか持っていない読者では決してなく、
<良い読者>であるべきだ。 


 粗末な物差ししか持っていない読者を、実作者が作品でどうこう
できるものではない。歌壇内からは当然のこと、さらには藤原龍一
郎氏が純粋読者としての北村薫氏に期待を寄せているように、歌壇
の外からも<良い短歌>をどんどん紹介してくれる人が出現して、
読者を啓蒙していくよりほかない。



---------------------------------------------------------

☆この記事については、その後、
  村田馨さんと掲示板でも意見交換をした。


レインボー・セル掲示
 (http://www8.plala.or.jp/cgi-bin/light/light.cgi/haru3-kan/light

[1779] 「良い短歌/良い読者」に対するコメント 投稿者: 村田 馨 投稿日:2005/11/14(Mon) 12:30

[1780] 村田さん 投稿者: 伊波虎英 投稿日:2005/11/17(Thu) 01:44