◆『花西行』 桑原正紀歌集


 二〇一〇年春から二〇一四年春の作品四四四首を収めた第八歌集。
タイトルは、歌集の最後に置かれた一連「花西行」のなかの教師を定
年退職した直後の著者の感慨が込められた次の歌から採られている。


  寝袋を背負ひて桜追ひ行かな花西行と同行二人


 その教員生活と、十一年前に病に倒れ入院生活を送る妻との生活を
中心とした日常が歌集の柱であるが、そこに東日本大震災やそれに伴
原発の問題などが影を落とす。


  明視すべき世にあらざれどあたらしき眼鏡を妻のためにつくりぬ


 「いま私の中で、人間を信じて未来を祝福したいという思いと、人
間の未来に対するペシミスティックな気分とが葛藤して」いるという
著者。しかし、妻や生徒、愛する猫や自然に向けられた著者のまなざ
しは非常にあたたかくやさしい。


  バラの木の下にねむれる猫二匹おもへり遠き星あふぐがに
  ほかほかと冬の礼拝堂ぬくし神の御胸(みむね)にゐるならば寝よ
  妻といふほかなけれどもこの人を妻とし呼べば何かはみ出る
  仕合はせといふはむつかしきことならず心を寄せて温(ぬく)め合ふこと


 最後に、とても惹かれたほのぼのとあたたかくて哀しい歌を二首。


  夜のふけを食べるどん兵衛ほのぼのと湯気あげてわがまなこを濡らす
  炊きたての飯よそふときほのぼのと顔つつむ香を母とおもへり



(現代短歌社 〒113-0033 東京都文京区本郷1-35-26
         電話03-5804-7100 定価2,315円+税)
 
 
                            (伊波虎英)




◆誌面で紹介できなかった歌をいくつか   

〈天意〉とは思へどされどこれの世に河野裕子のなきこと悲し
にんげんの終末の気の濃く籠もる夜の病棟をつつしみて行く
今日妻は調子がいいのかわるいのか鼻唄まじりにご飯を食べる
「短歌人」が届けば小池光の歌まづは読みたり妻恋ひの歌を
繰り返し流さるる大津波の映像を上目に見つつ足の爪きる
猫好きにハガキ書き終へ猫切手貼るときふつとゆるむ口もと
アナトール・Fが言つたわけではないけれど時間は最も優れた箒
夏雲の盛り上がるあり浮かぶあり愛のかたちはひとつではない
夜のふけをコルトレーンのサックスがベースとフレンチ・キス繰り返す
寺山の歌教へつつ燐寸擦る動作までしてみせる代(よ)となる
「便覧に載らない太宰治年表」を作り配れば「おお」とどよめく
礼拝堂に三百の生徒すわりゐてひとりふたりと首が消えゆく
とむらひは儀式にあらず温石(をんじやく)のごと亡き人を胸に抱くこと
夜の道にライター擦れば手囲ひの宇宙に仄か仏立ちたり
夜をまた来て見るさくらほの白く膨れて闇のなかに息づく
亡き人をおもふは辛しされど亡き猫をおもふはたのし何ゆゑ
いまの吾がこころ弱りを抓(つね)るがに奈良美智(よしとも)の少女が睨む
柩なる小窓をのぞきお別れを申すあの世をうかがふやうに
送別会は生前葬に近ければにこやかに笑む遺影のごとく
胡麻だけを固めた肥後の胡麻せんべい齧れば肥後の陽の匂ひせり