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◆「三月の時ならぬ雪」松木秀
男とは背中で語るものなればリングに倒れゆくアケボノは
昭和とはソ連のありし頃を指すミリバールありし頃もまた指す
◆「こくこくと春を飲み干す」有沢螢
こくこくと春を飲み干す少年ののどぼとけひとつボトルに映る
閉鎖病棟の南の畑ゆるやかにキャベツ巻きつつ傾きてをり
◆「モネ展へ母は」猪幸絵
モネ展へ母はわたしを連れてゆく水には色がないと言ったら
帰るべき場所を隠してゆくために桜ふぶきは当分つづく
◆「駈歩の扶助」洞口千恵
四肢開きおもぶるに降りくる杜貴の成り成りて成りあまれるところ
草刈りて皸(かか)るわが手を杜貴は舐むときをり羞し十指もつこと
◆「失はぬ美は」大倉佳彦
やすらけく水屑の隣る上澄みに人外境の眠れる庭面
誘掖は迂遠なりしも迸る飛沫あまねく均霑したり
◆「ほんとうの苦しみ」若尾美智子
遺されしかろやかな歌その中に<……やさしすぎたる者は死にゆく>
はるのそら立壺菫いろに昏れディズニーランドにゆきしことなし
◆「彼岸桜の蕾の」宮本しゅん
ゆきずりの歩き遍路を案内せし彼の琵琶塚も草の萌えゐむ
非常口の緑色光る待合室わたしが今日の最後の患者
◆「ひとすぢの蝋燭の炎が」佐藤大船
憶ひだす街路おぼろにて両となり空白のまなかに薬屋の立つ
ロシアの映画「父、帰る」を観て
嵐過ぎ浜辺にうかぶ白雲のやうにぽつねんと父といふ謎
◆「磨きたる鏡の中の人」清水繭
早々と夜のカーテン閉ぢるべし雨の気配に夜景潤(うる)めば
硬質の薄きグラスの感触に口唇(くちびる)ほころぶ桜花のごとく
◆「梅の花はらら零るる」矢野千恵子
梅の花はらら零るる屈託の撓み弾けて目白二羽発つ
潜みをるは鶯ならむ木も草も猫も手桶も聞耳を立て
◆「わが家に帰れる晩に」矢嶋博士
さくらの花七分の木末(こぬれ)のほそければ朝ふく風に揺れにけりはや
九歳と六歳ゆくへ従へばこの世の白きさくらの下(もと)に来ぬ