幸ひを背負ひて生き来し歳月に密かにととのへられし旅路は
雨の夜の眠りのつづきに明日あると恃む心はいつまでならむ
鳥群れて飛翔はじめぬ旅立ちの支度は徐々にととのへられて
群どりの影ひくく地をはしりゆきますます高く青き空なり        海野よしゑ (9月27日ご逝去)



退会をなして区切りをつけたるが後(のち)に死にゆく芸当をこそ  中地俊夫



病むことを隠さず病に触るるなく澄みて明るきひとすぢの歌
遺稿にならむとありて届きしエアメール これが最後の選歌なしゐつ  蒔田さくら子



リスボンの港を発ちし船の帆の丸に「や」の字よ まるや マリヤよ  本多稜



笑うこと覚えし吾子は母われの納豆こねるさま見てわらう  鶴田伊津



波だたせ切る缶詰のふた光り何かが遠くへだたってゆく  相川真佐子



女子高校生三人おればその右手、右手、左手にある携帯電話  今井千草



うとうととせし一瞬に落としたる自分の首をしずかに擡ぐ  多久麻



羽根布団の羽根とはなりぬ鳥の羽根それより先に肉は食はれて  小池光



しにびとの頰にさはりしことなどを手はおもひだす梨むく夜に  多田零



古き日の映画観おればバルドーの肉体ですら思索的なり  木曽陽子



先生が死ねばその地は覚えられ教え子たちのアフガニスタン  八木博信



弁慶になりきる枝雀の左手の生命線は太くて長し  川島眸



憎き男もみなふぐりを持ちしゆゑかはゆしと淀川長治いへり  水島和夫



雨降ればぬかるみとなる庭土にわが影は見ゆ縁(へり)にじませて  菊池孝彦



代垢離(だいごり)を業とせし者あるなどの江戸のお伊勢まいりの話は  大和克子