◆ うたを読む  伊波虎英


 「短歌人」に寄せられた歌には、毎月すべて目を通すようにして
いる。会員2、1、同人2、1という順に読みながら、いいなと思っ
た歌には赤ペンで○をつけてゆく。辞書を引いてもわからない言葉
で気になるものにも、後で調べることができるよう印をつけておく。


 そうやって読んでゆくと、いろいろな人の時事詠や季節の歌とい
った共通の主題を扱った歌はもちろん、同じような身の上の方々の
子育てや介護、自身の病の歌といったさまざまな分野の歌をまとま
った数で目にすることができる。わずか1ページほどの間を置いて、


 起き出でてふかく息する二度三度きのうの続きとならぬまじない  越田慶子 
 きのふにそのままつづく今日にして脱ぎつぱなしの靴履きて来つ  中島敦子


という二首に出会えたりするのもおもしろい。昨日から続く日常を、
前者は深呼吸という朝の儀式で断ち切ろうとしているのに対し、後
者はまるまる受け入れざるを得ない諦めの境地にいる。表面上はま
ったく趣の異なる歌だが、(「脱ぎつぱなしの靴」に象徴される)
日々繰り返される代り映えがしない単調な生活への屈折した思いが
どちらからも感じられる。


 死ぬるときは息を吐くにやはた吸ふにや梅雨の夜風にカーテン揺るる  洞口千恵 


 「きのうの続き」が途絶えることとなる臨終の時には、はたして
人間は息を吐くのか、それとも吸うものなのか。漠然とした疑問か
ら、自分自身が死ぬ時へとやがて思いは巡る。すると、ふだんは無
意識でおこなっている呼吸を変に意識してしまって、だんだん息遣
いがおかしくなってきているのかもしれない。風に揺れるカーテン
の描写が、そのような彼女の息遣いと呼応しているように思えた。


 最後に、


 筍とわかめ煮ふくめ寂し寂しもう歌詠まぬと言ひし人ゐて  小出千歳

  
という歌には、僕も作者同様、寂しい気持ちになった。「詠めぬ」
でなくて「詠まぬ」というのがつらい。それぞれいろいろな事情が
あるだろう。でも僕は、毎月みなさん全員の歌に注目しています。