◆ 短歌の鑑賞について  伊波虎英


 短歌の実作と鑑賞は車の両輪のような関係だと最近つくづく思う。
と言っても、良い歌を作る人は鑑賞文が上手いとか、鑑賞文が上手
くなれば良い歌が作れるようになるなんてことが言いたいのではな
い。何も鑑賞文を書くことが鑑賞というわけではないだろう。


 歌壇という狭い世界における内輪の挨拶がわりでしかないような
鑑賞文や、鑑賞に託けて他人の短歌作品を自らの経験や境遇を語る
エッセーの題材にしたような鑑賞文もどきの文章など、文章を書く
ことがまず一番の目的にあるような〈鑑賞文のための鑑賞〉なら書
かないほうがましだ。本来、鑑賞文というのは、自分が心揺さぶら
れたすばらしい短歌を他の人にも知ってほしいという熱い思いがあ
ってこそ書かれるべきなのだから。


 たいていの人は、毎月「短歌人」が届くと、知り合いや気になる人、
注目している会員の名前をさがして頁を繰り、作品に目を通すくら
いのことはしているんじゃないだろうか。それも立派な短歌の鑑賞
だ。なかには自分の掲載歌を確認してそれきりという人もいるかも
しれない。しかし、それとて「なぜ、あの歌は選から漏れたんだろ
う」と考えたり、「こんな歌を出していたんだ」などと思いながら
改めて自分の歌を読みなおす行為はやはり短歌の鑑賞と言えると思
う。そこからちょっとだけ頑張って、自分の掲載歌の両隣に並んで
いる人の歌を読んでみるとか、できるだけ多くの短歌に触れていく
ことが何よりもまず大切なことだ。


 そして、独りよがりの短歌観に凝り固まらないよう、他の人がど
んなふうに短歌作品を読んでいるのか、つまり〈短歌の鑑賞の鑑賞〉
をすることも大切だろう。「selection」欄の歌や「作品月評」の短
いコメントを読むだけでも「こんな良い歌を見逃していたのか」と
気付かされ、二か月前の「短歌人」を再び開くことがしばしばある。


 と、もっともなことを書き連ねてきたけれど、実際は短歌の実作
に行き詰まってくると、人の歌を読むのも正直億劫になってくる。
いや、短歌そのもがつまらなくなってきて人の歌もろくに読まない
から実作に行き詰まってしまうのか……。本当に短歌の実作と鑑賞
は車の両輪のような関係だ。