ニューウェーブとは呼ばせない  


 『短歌』十二月号の特集記事「新鋭歌人の短歌観」に、松村正直氏が「もうニューウェ
ーブはいらない」と題した文章を寄せている。「ニューウェーブの時代はもう終ったのだ。」
で締めくくられたこの文章は、意図的であるとはいえ、かつて自分自身が大きな影響を受
けたという穂村弘荻原裕幸加藤治郎ニューウェーブ歌人に対してかなり挑発的なも
のといえよう。


 この中で松村は、同人誌「勝手に合評」の「ニューウェーブ世代の歌人たちを検証する」
という特集によって、「修辞に頼り過ぎるニューウェーブでもなく、またそれ以前の、生
活そのままを詠む短歌でもない、第三の道を進むしかないという結論に達した。」とも述
べている。


 文章とともに掲載されている松村の連作「陪塚」が、「第三の道」を進んでいる短歌と
いえるのかについては、甚だ疑問ではある。とはいえ、そのことについては、「第三の道
がそうそう容易くみつかるはずもないであろうし、これからの作歌活動のなかで試行錯誤
していくものであろうから、現時点で特に気にはならない。むしろ松村の心意気に好感を
もった。


 ただ、松村の進む「第三の道」が、あたかもファッションの流行が三十年周期で繰り返
すといわれるように、揺り戻しによる「私性」の再獲得というような回帰に結局は終わっ
てしまうのではないのかという若干の危惧を抱かないではない。「作品の中の確かな手触
りや実感を通じて、自分の輪郭を取り戻したい」、「たとえ無様でもいいから、おしゃれ
な歌でなくてもいいから、何よりもまず自分の心に響く歌が作りたい。」という言葉が、
読者を無視した逃げの言葉となりはしないか。また「第三の道」を求める松村が、結局は
歩んできた道を逆戻りしていたということになりはしないか、と。


   浮島のごとく古墳は静かなりその傍らに陪塚(ばいちょう)ふたつ  松村正直


 何はともあれ、「もうニューウェーブはいらない」というこの記事から、ニューウェー
ブという古墳に寄り添う陪塚にはならないぞという松村の強い決意を私は感じた。「「私」
の存在が薄い歌を作り続けるうちに、自分が消えていくような不安を覚えた」という松村
が、今後、歌の中で新しい「私性」をみせてくれることを期待したい。


 で、はたしてニューウェーブの時代は終わったのか。ネット上にはニューウェーブ短歌
が氾濫しているように思える。そういった状況が、何か新しいものを内包している状態と
いえるのか、それとも松村がいう「無数のエピゴーネンを生み出す」だけに終わっている
のか。考察不足の私には、ニューウェーブの時代が終わってしまったのかどうかこの場で
結論を導き出すことはできない。ただ、昨今の短歌ブームでひとつ感じているのは、目の
前にある三十一音の「器」を手軽なツールと考え、自分の言葉(と思い込んでいるもの)
をあまりにも無自覚に詰め込んでいないかということだ。


 「ニューウェーブ」とは呼ばせない新しい短歌(それは「ネオ・ニューウェーブ」と呼
ばれるようなものかもしれないし、あるいは全く別のかたちの「ポスト・ニューウェーブ
なのかもしれない)を生み出すということに、もう少し一人一人が意識的でなければなら
ないのかもしれない。そうでなければ、私の作る歌は、そしてあなたの作る歌は、陪塚ど
ころか埴輪となって埋もれてしまうことになるだろう。


 さあ、それぞれの「第三の道」を模索していこうではないか。


        (「ちゃばしら」2002−2003年末年始合併号掲載) 2002.12.14メール配信