torae1732003-08-16



◆ 『きりんのうた。』を聴け


 こわれゆくおもちゃのように手を振った虚空に刺さる遮断機の下


 永遠に時間が止まったかのように遮断機は開いたままなのに、〈私〉はとい
えば線路を越えて向こう側へ行こうとはせずに手を振り続けているだけ。それ
も、「さよならは嫌!」という感情を無理やり払い除けるかのようにがむしゃ
らに……。彼女の顔はきっと、涙でぐちゃぐちゃのはず。痛々しいまでの決意
が感じられる歌だ。


 この歌は、ひぐらしひなつ第一歌集『きりんのうた。』(歌葉叢書18)の
冒頭歌として、一ページに一首のみ太字で大きく印刷されている。歌集の宣伝
サイト
に掲載されていた自選十首のなかで最も印象的な歌であり、歌集が手元
に届く前から好きな歌だった。


 「あとがき」で彼女は、この歌集が「一度は見失いかけた自我の奪還を目指
して闇雲に走ってきた時代に区切りをつけるため」のものだと述べている。ひ
ょっとするとこの冒頭歌は、今までの彼女自身への訣別宣言なのかもしれない。
見失いかけた自我は、過去を抹消しただ前へ前へと突き進むだけでは取り戻せ
はしないし、逆に過去へ過去へと遡るだけでも取り戻すことはできないだろう。
だから、とんでもなくやっかいなのだ。


 「組みかけの模型」、「読みかけの新潮文庫」、「読みさしのボリス・ヴィ
アン」、「描きかけの画帳」、「死にかけたトラ」、「食べかけの林檎うさぎ」
……。自我の奪還をめざし悪戦苦闘するひぐらしが無意識のうちに表出したか
のように、『きりんのうた。』では、何か途中の状態にある物やそれを含んだ
場面を詠んだ歌が非常に目に付いた。次の「さよなら」の歌でも、鳴り終わる
途中で壊れてしまったオルゴールが比喩的に詠み込まれている。


 「さよなら」の「ら」を鳴らせずにこときれたオルゴールからこぼれる明日
 

 彼女は自我の奪還に成功したのか。それは私にはわからない。しかし、短歌
と出会い、こうして第一歌集をまとめることによって、自分自身、そして他者、
あるいは彼女を取り巻く環境となんらかの折り合いをつけることができる地点
には到達することができたのではないだろうか。


 いつまでもとけあわないから抱きあえる。ふたりはふたりだから。帰ろう。


 なくならない。
 なにもかわらない。
 いっしょにいても。
 はなれても。 


 このように結ばれる詩が、歌集冒頭歌が掲載されたページの隣に置かれてい
る(動物園で死んだきりんは切り刻んでから埋められる、というエピソードを
含んだ詩だ)。また、その前に挙げた歌では、「ふたりはふたり」、「いつま
でもとけあわない」ままでいるからこそ「抱きあえる」んだという彼女が獲得
したひとつの真理が詠われている。


 濡れながら芝生を掘った たいせつなたいせつなものだからこの手で


 大切なものだからこそ自分自身の素手で穴を掘り、ひとつひとつ確認しなが
ら手厚く埋葬してゆく。彼女は、動物園で死んだきりんを切り刻んで埋めるの
と同様の作業を短歌を通しておこなってきたといえるだろう。


 羊水に溺れそこねて手のひらで膝の丸みを確かめている 


 夜の河に金魚を放つ今つけたばかりの名前をささやきながら


 ゆるやかに漕ぎ出す舟は河口へと着く頃しずかに燃え尽きるだろう


 駅裏の放置自転車つぎつぎに倒れはじめてパレードが来る


 ただ知っていればいいのだみずうみが遠いどこかで澄んでいること


 汚れてもいい明日またこの場所で天王星を探せるのなら


 これまでずいぶん的外れなことを語ってきたかもしれない。しかし『きりん
のうた。』が〈詩性〉に富んだ歌集であるということは自信をもって言える。
ひぐらしの歌は、私の五感に、そして五感を超えたところに訴えかけてくる。


 以前、きりんという動物は、こうもりと同じように人間には聞こえない周波
数で互いにコミュニケーションをとっていると聞いたことがある。ひょっとし
たら、きりんたちは僕たちの遥か頭上の空気を会話だけでなく歌声によっても
震わせているのかもしれない。ひぐらしひなつは、『きりんのうた。』を足が
かりにして、これからもきりんのように語り、歌い続けていくことだろう。彼
女のことば、そして歌声に今後もじっと耳を澄ませていきたい。


 遠い目をしてぼくを見るあなたなら < きりんのうた > を知っているはず  神崎ハルミ


                       (「ちゃばしら」2003年8月号掲載)