torae1732003-09-18



◆ 『ありふれた空』の下、彼女は


 死ぬ時も生まれる時もひとりだと思えば何とありふれた空 


 これは諦観だろうか、それとも達観だろうか。ありふれた空の下、いったい
彼女はどんな表情をしているのだろう。


 十谷あとりの第一歌集『ありふれた空』(北冬舎)が六月に出版された。
「日月」「玲瓏」に所属しながら、「短歌 原人の海図」の運営委員としてネ
ットでも活発に活動している十谷。彼女の歌が、「ネット短歌」といった曖昧
な言葉でひとくくりにされてしまうようなものでないのは、歌集を読めば一目
瞭然である。一言でいえば、「私性」の強い歌。身の裡にずっと「何か」を内
包し続けていた彼女が短歌に出会ったのだ。外部へと広がりのある作品世界と
いうよりは、自分自身の内部を深く見つめた作品世界が展開されているという
印象の強い歌集だ。


 何処にいる何をしている何おもう知りたいけれどされども父よ


 父母の偽りの笑みは罠にかけ明るい川に沈めに行こう


 リサイクルは煩雑である父を踏み母を十字にくくらねばならぬ 


 次の世は鮭になりたし 親知らず 命懸けたる子の顔も見ず


 やさしさに似た父の怯懦を思うとき斜めに破(や)れるベルマーク2点


 歌集の末尾で永田典子は、「『ありふれた空』の背景をなすものに、生みの
ちちははへの愛憎がある。誤解を恐れずに言えば、これこそが、あとりの短歌
を作るはずみとなったのではないか、とさえ私は考えている。」(原文「はず
み」に傍点。)と述べている。この点について、私も同様の思いを抱いた。
「原人の海図」の歌会掲示板で、時折、家族のことを重い口を開くように十谷
が語っていたことを思い出す。上記掲出歌五首に、彼女の作歌動機といったも
のの一端を垣間見ることができるはずだ。


 透明な水は咽喉を流れ落ちわたしの中で濁りはじめる


 ほとばしる涙よシャワーの熱き湯よ すまない わたしは汚すばかりだ


 いま橋を渡って来たから影だけはきれいな水で洗いたてです


 さびしさの匂いがこもらないように髪はいつでも短めに切る


 両の手で耳を塞いで気が付いた動物園は淋しい匂い


 ここにあるべきものは連翹の黄金(きん)〈卯月モータープール〉ではなく


 「生みのちちははへの愛憎」がトラウマとなっているかのように、自らを
「汚れているもの」、「汚す」ものと認識する歌が歌集にはいくつか収められ
ている。また、淋しさの表出(動物園の匂いの中にも、自分自身の淋しさを嗅
ぎ取っているにちがいない。)、未生の子を詠んだ冒頭作品「春愁」十一首中
にある「ここにあるべきもの」が在るべきところにない欠落感を詠んだ歌も心
に残った。


 短歌を作ることによって、彼女の心は少しでも浄化されたのだろうか、そし
て孤独感は解消されたのだろうか。現在、結婚し母親となっている十谷。あり
ふれた空の下、いったい彼女はどんな表情をして歩んでいるのだろう。きっと
そこには諦観も達観もなく、ぶつかったり躓きながらして、時には泣き、時に
は笑い、がむしゃらに歩く彼女がいるにちがいない。これからも十谷あとりは
自らの生を深く見つめ、言葉を発し続けていくのだろう。


 われも知らぬわが水深を測らんとしず沈み来るわが背の錘


                       (「ちゃばしら」2003年9月号掲載)