torae1732003-10-31



◆ 隘路を進み空間を読む ― 穂村弘の短歌ワールド


 「短歌ヴァーサス」第二号の特集「穂村弘〈短歌〉の劇場」は、穂村弘の短
歌の魅力をさまざまな面から提示するものとなっていて非常に興味深く読んだ。


 河田育子は「『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』への招待」で、こ
の歌集について「穂村ワールドと呼ぶべき世界に、参入できる読者とできない
読者とをはっきりと分けるという面を持つ」と述べている。また、枡野浩一
短歌と比較して「枡野の方は歌人と読者との間のコミュニケーション経路が瞬
時に開通するが、穂村の場合、読者は戸惑いのなかに置かれて、その経路は隘
路とも呼ぶべきものになっている。」とも述べている。この「隘路」こそ〈詩〉
なのではないかと考える僕は、〈穂村〉派か〈枡野〉派かの二者択一でいえば
〈穂村〉派ということになるのだろう。しかし、『シンジケート』 『ドライ
ドライ アイス』と穂村の短歌に惹かれ、彼の歌を目にしてきた僕としては、
『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の歌集としてのコンセプトには正
直なところ戸惑いがあった。とは言ってもこれまでの歌集同様、一首一首独立
した歌としてはとても魅力的な歌がたくさんあったので、「穂村ワールド」か
ら離れることはなかったわけである。(『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連
れ)』については、昨年自分のサイトにも少し感想を記している。)


 河田のいう穂村の歌にある「歌人と読者との間のコミュニケーション経路」
の「隘路」については、栗木京子も「先端で世界にさわる」の中で「本当のと
ころ、私には穂村弘の歌はよくわからないところが多いのだ。」と述べている。
僕は、穂村の歌をそんなに読者とのコミュニケーションを拒んだよくわからな
い歌だとは思っていないのだけれど、実際はよく理解していないのにわかった
つもりでいるだけなのかもしれない。栗木が、わからない歌として具体的に挙
げる歌集『ドライ ドライ アイス』に収められている「フレミングの左手の法
則」の歌も、僕自身わかったつもりで軽く読み流していたにすぎなかったのだ
ろうか。穂村の歌の魅力を再確認する一助となればという思いで、この歌につ
いての僕の解釈をここで整理してみようと思う。


「フレミングの左手の法則憶えてる?」「キスする前にまず手を握れ」 穂村弘


 みなさんは、栗木がわからないというこの穂村の歌をどのように読み解くだ
ろう。この歌を目にした誰もが、恋愛感情が存在する男女二人の姿を思い描く
のではないだろうか。「フレミングの左手の法則」という物理の授業の定番(?)、
そしてキスをする作法(?)が話題になっていることから、二人は十代の初々
しい男女のように僕には感じられる。その解釈に誤りがないことは、この歌が
収められている連作「夏時間」を読めば納得してもらえるだろう。では、恋人
同士の会話から成り立っている歌だと単純に解釈してしまって構わないだろう
か。どうも僕には、この歌のポイントがそこにあるように思えて仕方ない。


 栗木が「穂村はなぜこのような歌をつくるのだろう。」と理解できないでい
るのは、彼女が、この歌は二人の会話から成り立っていると解釈して読み解こ
うとしているからではないだろうか。(イエスかノーかの単純な返答であろう
が、気の利いた返答であろうが)相手の返答を期待して、唐突にフレミング
左手の法則を憶えているかなどという質問をするというのは、シチュエーショ
ン的にかなり不自然である。まさか関西人のノリで相手に〈ボケ〉を期待して
いるわけでもないだろうし……。仮に二人の会話から成り立っている歌だとす
ると、下句の返答にウィットは感じるけれど、トレンディードラマの出来過ぎ
た台詞みたいでリアリティーが全く感じられない。はっきり言って、相聞歌と
してはかなり強引で完成度の低い歌と言わざるを得ない。


 僕は、これは会話ではなく、どちらも作中主体の男性が発した言葉であると
読んだのだけれど、みなさんはどう考えるだろうか。僕の解釈はこんな感じだ。


 すでに付き合いはじめて数ヶ月が過ぎ、ある程度気心が知れている二人。お
互いにもう一歩踏み込んだ関係を意識する頃だ。特に、思春期の男の子の頭の
中はいろいろな妄想で爆発寸前にちがいない。デートの時、彼はいつも彼女を
家の近くまで送ってあげている。別れを惜しむように、彼女の家のそばの公園
で小一時間は他愛もない話をするのが二人のお決まりだ。


 ある日のデートの帰り。いつものように公園で話をしていた二人に気まずい
沈黙が流れる。ちょっとうろたえながらも彼は、「なあ、フレミングの左手の
法則憶えてるか?」と突拍子もない質問を彼女に投げかける。(私が理数系が
苦手なのを知っているはずなのになんでそんなこと聞くのよ。)彼女は、ムッ
とした顔で彼を見る。でもこのまま気まずい空気が流れるよりはましだと思い
なおし、(この前授業で習ったばっかりなんだけどなあ……)と、ちんぷんか
んぷんなままに左手の指を変な具合に曲げてみせる彼女。そこで彼が、照れな
がらぶっきらぼうにこう言うのだ。「キスする前にまず手を握れ、だよ」、と。
そう言った彼自身がすぐさま彼女の手を握ったのか、あるいは彼女の方がそっ
と彼の手を握ったのか、はたまた彼女に「ばかじゃないの!」と軽くかわされ
てしまったのかはわからない。しかしこの日、〈キスする前にまず手を握ると
いう「フレミングの左手の法則」〉が、彼ら二人だけの法則として確立したの
だ。たとえ、この日この法則が実証されなかったとしても、近いうちに必ず実
証されたにちがいない。


 こうして「フレミングの左手の法則」の歌について解釈を試みたことによっ
て、穂村弘の短歌の魅力の一面を再確認できたように思う。さらに、「歌人
読者との間のコミュニケーション経路」の「隘路」を進み、一首に閉じ込めら
れた言葉が発する表面的な輝きだけでなく、その言葉の背後、そして言葉と言
葉の空白部分から立ち上がってくる〈もの〉を読み取ることによってこそ掴み
取ることができる歌の魅力(決して必要以上の深読みをするということではな
い)、またそのような読みによってもたらされる短歌の読み手としての快感や
至福感といったものを彼の歌を通して再確認することができたようにも思う。


      *   *   *


 穂村の散文の仕事について書かれた長嶋有の「一人勝ちの予感 ― 表現の砂
漠で」は、穂村弘論という枠組みを越えた読み物としても非常に示唆に富んで
いた。「反響なんてなくて当たり前、なれ合いになりがち、やる気が保てない。
そういう場所でも、君たちは本当にその凛とした目で活動できるだろうか。絶
対にできるわけがない!」という「表現の砂漠で生き残る」ということについ
ての長嶋の発言は、多様化する表現の場について検証したもうひとつの特集
「変貌する短歌の[場]」にも少なからず関連のある発言と言えよう。また、
「個人の内発性や自律性」および「個人の外側にある何かを作品が参照する必
要」性について触れた荻原裕幸の連載記事「短歌と[場] 2」とも関連して
いる。今回、このコラムで詳しく触れることはできなかったけれど、主にネッ
ト上で活動している僕としてはいろいろと考えさせられたということを最後に
付け加えておきたい。


                       (「ちゃばしら」2003年10月号掲載)