◆「一匙の塩」酒井佑子
死ににゆく者なればその朝々をいとしみにけりななそぢとなる 
入善(にふぜん)を見たき心の離(か)れゆくを入善はなほ遙かなるかな
父母も故國(ふるくに)の伊予も遙けきに夜更けて道に伊予びとに逢ふ



◆「休日の夜」神代勝敏
隣家より父の咳するかろき声二枚の網戸くぐりとどきぬ
ひらひらと羽はためかす蝶とんぼ水面の上一尺無限



◆「修羅修羅」阿部久美
雨宿り雨をみてゐる雨粒の落つるほかなき幸と不幸を
中有とふやさしきあはひをゆるされて さらばと緩(ゆる)に交はす抱擁



◆「十歩の歌」菊池孝彦
木漏れ日のさゐさゐと降る道をゆくたましひはすこし先へ行かせて
手も足も出せば出せないことはなしゆふぐれの群衆にまぎるる



◆「水を飲む猫」関谷啓
ビニールの長き袋に容れられし葱のうっぷん青々と満ち
生臭き川の匂いは夏草のなかを走りぬ獣めきつつ



◆「夏の気配」相川真佐子
洗い終えふせる茶碗のかたちなす薄闇を棚に蔵いているも
足裏のどこか湿れる異和感に「患者さま」なるアナウンスあり
ちぐはぐな会話のごとき日照雨橋わたりゆく我を濡らせり
何をかを待ちて傾く自転車の前輪うすき錆ふきていつ



◆「みどりの影」永井淑子
≪わだつみのいろこの宮≫の踝(くるぶし)の白いましがた見たるくるしさ
青木繁五つ呑みたる鶏卵の死に際にしてとほりゆくもの



◆「散策抄」吉岡生夫
三階の窓からみればことわりしセールスマンがベルおすところ
うまいのは鯉の洗ひか酢味噌かとおもへど二つたして一品
国宝も彩色おちてそのかみの栄華おもへとほこりふる堂



◆「ひまはり畑」人見邦子
しばし前新聞読みゐしまなこもて入道雲を追ひをり車窓に
ゆふぐれも暑さの去らず樹の幹の微熱からだに移りくる道



◆「予感」松村洋子
ねむりゐる犬の瞼のふくらみて影向(やうがう)といふ遥かなるかげ
蝋燭に灯ともすことを止められし老いのつぶやき那謨(なも)どこまでも
ほたほたと後ろ手に来る歩き神分家本家の稲穂を分けて



◆「月日」大和類子
花が沈み葉が立ち上る睡蓮の小池に埋む一部始終を
長々とこの世に在りて視しものは霧にまぎれて去るひとの背(せな)



◆「晩夏の靴」守谷茂泰
流星の降りそそぐ夜浴槽に水張ることも祈りに近し
死ぬまでに飲む水の量おもうとき遊星的な淋しさのなか
銀色の自転車ならぶ八月はまぶしき標本箱となりゆく
噴水湾は今大いなる耳となり夏の去りゆく雨音を聞く
夜明け前郵便受けに刺さりたる新聞は鋭き世界のかけら