「夜の馬」久保寛容
落日は川面にモネを模倣してたちまちわれの村を暗くす 
大いなる夜の青毛が来る河原とおくの橋から闇に入りゆく
神の名の星星の下残されて畑に傾いている一輪車(ねこぐるま)



「昼の苑」八木明子
卒業式のをとめの袴 とことはに地(つち)に届かぬ桜花散る
田といふ田がたうゑ待ちをり鏡水に小島のごとく町を浮かべて
脱ぎ終へしはずの片靴とび乗りぬ上がり框にわれより先に



「雪解けの道」会田美奈子
最後まで目(まなこ)を開き光らせてそのまま逝きし人を忘れず
五寸釘打つがごとくにヒールの音最終電車が置き去りにする
わたくしと夫をへだて老猫がうすくれないの舌だし眠る



「春の一日」正藤義文
沈丁花の花の匂ひの流れくる霧のあしたの玄関を掃く
頭より温度の段差かんじつつ午後の陽射しの二階にのぼる
空想のふかみに入りし男ゐて昼の炬燵のなかで夢みる



「春寒」野中祥子
着たことのなき色というオレンジの春のTシャツ友へと選ぶ
客人のように世話せし胡蝶蘭三月(みつき)を咲いて弱りはじめる
脳のよごれ透き通りゆくと思うまでシャワーの下に髪を洗えり



「重たき休息」関根忠幹
フォグランプ点し過(よ)ぎりし霊柩車霧を捲きつつ昨日(きぞ)へ溶け込む
老け役の仮面を脱ぎて戻りたる我に重たき休息が待つ
春闌けて樹々は昂り月光に身を削がれつつひしと抱き合う



「日々」川口かよ子
広きロビーを行きつ戻りつ掃除機をかけて男のひと日始まる
二十基あるエレベーターの真鍮を磨き続けて上下する肩
ポップコーンの弾ける音の消えたあと 電子レンジの中の静寂



「春愁」近藤かすみ
皺の字は雛に似てをりいつまでもをさなきままの雛の面差し
木蓮の花ひらきそめまだ何も汚れを知らぬ軍手のかたち
手すさびに銀紙で折るだまし舟だれも使はぬ灰皿に燃す



「のぼり来よ」和田沙都子
追ひかけてはなびらもろとも掬ひあぐからだいつぱい笑ふ童子
小鳥たちのはなしはいつもにぎやかで わたしは樹齢(とし)を忘れてしまつた
その幹に足掛けあの枝この枝とのぼり来よさあ少女になつて



「遠くの窓」梅田由紀子
埃づくくもりガラスの窓高く淡路の駅に春の日はさす
重ねたる木箱もろとも石垣にもたれてをりし自転車とひと
蜂蜜にまみれて胡桃しづまざる壜あればアイソスタシーを説く