◆短歌人賞受賞作(3作品)  *一連30首より



「生まれておいで」猪幸絵
喝采かブーイングかもきめかねて土砂降りのなか無言で歩く
三月尽捨てたいものは捨ててゆく理由なくおまえは生まれておいで
予報では今年も暑くなるらしいほかのニュースを薄めるくらい
怒るべきときに怒れるようになれモーツァルトよりGREEN DAY聴く
目を閉じただけで涙が流れでる胎児が何か押し上げてくる
階段を降りることさえわたしではなくなってゆき遠い爪先
わるくないおまえはなんにもわるくない悔やみかけたら胎児へ語る
ベランダの手摺りにもたれ眠れない夜は足元まで海よ来い
前方へ突き出た腹の分だけを離れればいい机も仕事も
初夏、盛夏、晩夏と唱え産み月に近づくほどに重さを忘れ
待つことが苦手で走りそうになる臨月の身を置き去りにして
精一杯おまえに仮の名を贈る 晴れただけでは祝えない世に




「コンビナートを見に行かう」大越泉
子供ではない人は空に近づけず自ら漕ぎしブランコに酔ふ
さかあがり出来た人から抜けてゆくずつと逢魔が時の校庭
ゆつくりと自転車を漕ぐ老人のうしろを付いてゆきたし今日は
隔週の水曜に来る豆腐屋に会ひてのちまた暮らし始めぬ
文庫本ひとつ買ひ来てわが家の総重量の増ゆる夜なり
かすかなる夜の地震(なゐ)あり故郷と我の住処を同時に揺らす
今は人を想はぬといふ弟のいま書く文字の形を知らず
月よりも寂しく光ってゐるといふコンビナートを見に行かうすぐ




「歳月」関谷啓
炎(ひ)の量をすこし絞りて煮詰めいるジャムは汚れたガラスのようだ
赤蟻の列乱しいる空き缶はただ在ることの苦痛に満ちて
うつくしき眉持つひとと会うたびに山の稜線はるか匂うも
まれに会う老人なおもすこやかにアイスクリームの列に並べり
人待つは何とたのしき方形の噴水空に伸びあがる見ゆ
いもうとと言われるたびに姉のこえ姉らしくなりわれはいもうと
蝉しぐれ遠のきふたたび近づけばわたしの耳も伸びちぢみせり
桃の木に思春期というものありやなし空にするどく枝差し入れて
折れやすき今日のこころを立てかける銀杏の幹に手を触れていつ