◆ 短歌の声  伊波虎英


 最近、関西電力のCMに中島みゆきの「糸」という楽曲が使わ
れていて、彼女の歌声がテレビから流れてくると、ほかの作業を
していても思わず画面に目が行ってしまう。彼女の曲のなかでも
好きな曲のひとつで、前からよく知っているからというだけでな
く、彼女の歌声そのものに僕の心をひきつける何かがあるようだ。
実際、他の歌手がカヴァーしている「糸」を聞いたこともあるけ
れど、そちらはあまり心に響いてこなかった。


 このように音楽が人の心を打つ要素には、歌詞やメロディーだ
けでなく、歌い手の声(プロなら歌が巧いのは当然で、声質とい
ったもっと根元的なもの)も重要なポイントにあると言えよう。
短歌にもこうした声の要素はあるだろうか。


 短歌の場合、作者の声を知っているというのは、親近感をもっ
て作品に接することができるだけのことで、歌それ自体にはたい
して関係ないし、作者の声を知らない場合と変わりない。以前、
吉川宏志さんが、青磁社のサイトに設けられたブログで、実際に
は声を聞いたことのない釈迢空の歌を読んだ時に響いてくる声に
触れ、短歌を読むということは、作者の声でも読者の声でもない、
作者と読者のあいだに生まれている第三の声を聴き取ろうとする
行為なのではないかということを語っていて、なるほどと思った。


 短歌における声とは、無記名の歌からでも作者が誰なのかがわ
かるような、その歌人特有の韻律や修辞的特徴などから立ち上が
ってくるものとしか言いようのないものなのかもしれない。一方
で、そのような作者を特定することができるものとしての声とは
また別に、作者を離れ一首一首それぞれが独自に発している声と
いうものもあるような気がする。そして僕自身は、後者の声に耳
を澄まして歌を読んでいくことが大切なように近頃感じている。