◆ 詩的昇華装置としての定型  伊波虎英


 斉藤斎藤さんが「歌壇」一月号で「日常的な感慨を効果的に表現
するためだけに口語も文語もつまみ食いする、いわゆる文体の『ミ
ックス化』は、言葉を思想や現実から切り離し、短歌を自己表現の
ツールに、短歌のための短歌にし、やせ衰えさせてしまうだろう。」と
述べていたが、僕は短歌を思想や現実のためのツールにはしたくな
い。思想などというものは歌から自然と匂い立つべきもので、それ
を頭でっかちに考えて作歌するほうが短歌を痩せ衰えさせることに
なるのではないかとさえ思う。


 僕が常に考えているのは、自分にしか詠えない歌を詠みたいとい
うことだ。その際「何を詠うか」は当然だが、「どう詠うか」とい
うことも重要となってくるわけで、短歌という五句三十一音の定型を
詩的昇華装置と認識し、有効に機能させることを強く意識して作歌
してきた。さまざまな修辞的技法はもちろん、旧仮名か新仮名かと
いう仮名遣いの選択も、文語・口語表現の選択も、短歌という詩的
昇華装置としての詩型に第一義に貢献するべきものでなければなら
ないと考えている。


 定型を詩的昇華装置として有効に活用することに意識的であれば、
文語短歌であれ口語短歌であれ、あるいは両者を「ミックス化」し
た文体でも、作者の思う通り自由に用いればいい。僕自身も、基本
は文語だが、歌によっては形容詞や動詞の連体形に口語を用いたり
試行錯誤をしているところだ。しかし、詩的昇華装置としての定型
に無自覚なままの作歌は、ツイッターに書き込むどうでもいいよう
なつぶやきと変わらないものを定型にむりやり押し込んだだけの空
疎な口語短歌や、文語をちりばめたなんとなく短歌っぽいものを量
産するだけとなってしまうだろう。


 最後に、今回の東日本大震災原発事故について、詩的昇華装置
としての定型をもって、反原発をスローガン的にストレートに詠う
のは当然どうかと思うが、題詠的に詠まれた単に修辞に凝っただけ
の歌も不謹慎に思う。散文でさえうまく表現できない(それでも表
現したいと欲する)自分の中にあるモヤモヤした思いを形にし、他
者に伝えるために詩的昇華装置としての定型をより活かすべきだ。